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最高裁判所第三小法廷 昭和27年(オ)480号 判決 1954年7月06日

山形県東村山郡作谷沢村大字畑谷三六番地

上告人

吉田彌五右ヱ門

右訴訟代理人弁護士

戸田誠意

鍛治利一

同所同番地

被上告人

吉田武夫

右当事者間の不動産引渡並びに所有権移転登記手続請求事件について、仙台高等裁判所が昭和二七年四月九日言渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告申立があつた。よつて当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人弁護士鍛治利一、同戸田誠意の上告理由は別紙添付理由書記載のとおりである。

同理由書第五点について、

しかし、すでに贈与の履行が終つたものとして取消の意思表示を無効とした原審の判断は正当であり論旨は理由がない。

その他の論旨は「最高裁判所における民事上告事件の審判の特例に関する法律」(昭和二五年五月四日法律一三八号)一号乃至三号のいずれにも該当せず、又同法にいわゆる「法令の解釈に関する重要な主張を含む」ものと認められない。

よつて民訴四〇一条、九五条、八九条に従い裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 井上登 裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎)

昭和二七年(オ)第四八〇号

上告人 吉田彌五右衛門

被上告人 吉田武夫

上告代理人鍛治利一、同戸田誠意の上告理由

第一点

原判決は其の理由において

「被控訴人(上告人)は亡吉田彌治郎の長男で同人の家督相続人たる地位にあつたが、明治四十一年頃朝鮮に赴き、始め官吏生活をしていたが、後に事業を経営し、これに成功して終戦当時には約百万円の資本を有したもので、もともと終生朝鮮に落着き郷里へ帰る積りはなかつた。

彌治郎には他に数名の子供があつたが、男の子は何れも若い時に生家を出て他所で夫々生業に就き女の子は末娘の きを除いて他家に嫁いでいたので、彌治郎の家業(農業)を継いでその跡を立てていく方途としては末娘の きに婿養子を迎えてこれに事実上の跡目相続をさせる外はないとして、被控訴人の諒解の下に大正七年頃吉田勘四郎の四男勘十郎を婿養子としたが、約一年後に同人と協議離縁し、その後間もなく後藤憲太郎の弟憲治郎を、彌治郎の所有する財産はすべて同人に譲り事実上同人を彌治郎の相続人とする約束の下に婿養子に迎え きに娶わせた。このことは彌治郎の法定推定家督相続人であつた被控訴人も異存がなく、むしろ再び郷里に帰る積りもなく、また生家の財産につき何等未練のなかつた被控訴人の希望していたところであつたので、昭和五年九月彌治郎の死亡により法律上は被控訴人において家督相続をしたけれども、前示のようないきさつのために彌治郎の死亡後、憲治郎は被控訴人の了解を得て、彌治郎の所有であつた不動産を憲治郎の所有名儀に書換えるべくその手続を運ぼうとしたが、偶々憲治郎が病臥し、次いで昭和九年十二月四日死亡したためそのままになつてしまつた。ところが憲治郎の死亡後、間もない昭和十年一月十四日被控訴人の母ゆきも死亡し、被控訴人の生家に残るものは妹 きだけとなつた。そこで母死亡のために朝鮮から帰つて来た被控訴人は来集した弟妹その他の親族達とも相談の上、妹 きに適当な配偶者を迎え、これに生家を維持させることに方針を決め、被控訴人の妹やその夫吉田善七を介して、日詰庄吉の弟武夫(控訴人)に対し、 きの婿に来てくれるよう懇請した。しかし当時控訴人(被上告人)は兄の家から分家して独立しようとの計画もあり、それに きが控訴人よりも十歳も年長であつたところなとからして相当難色を示したが、被控訴人は、控訴人が きと夫婦となり事実上被控訴人の生家の跡を継きその家業を維持して呉れればよいので、戸籍上の手続などはいかようにしてもよいから、是非承諾して欲しい、そうしてくれれば被控訴人が彌治郎の死亡によつて相続した郷里にある一切の財産(本件係争不動産全部を含む)を控訴人に贈与する旨を告げて只管応諾を求めた結果、遂に控訴人も右の申入を承諾し昭和十年一月二十二日頃結納を取交し、翌日被控訴人の生家で きとの結婚式を挙げ、その翌日被控訴人は自己の印鑑証明書と実印を控訴人に預け朝鮮に向つて出発した。爾来控訴人は前示のように本件係争家屋に きと共に居住し、吉田家の事実上の承継者として自他共に許し、その間実家の助力を得て家屋に大修繕を施したりなどして、農業にいそしんだ。一方戸籍上の手続は色々と研究の結果ときが分家して、そこに控訴人が入夫婚姻として入籍するのが最も簡明であるとの見解に従い前示のように昭和十三年五月その手続を了し、当時そのことは朝鮮にある被控訴人にも通知したが、これにつき被控訴人からはもとより何の苦情もなかつた。また彌治郎の所有名義であつた不動産についてはその権利証が前に憲治郎から山辺町の代書人垂石ちんに預けてあつたので控訴人は昭和十一年十月頃、かねて被控訴人から託された実印を使い被控訴人の代理人として彌治郎の家督相続人である被控訴人のため相続による所有権移転登記又は保存登記を了し、続いて自己の名義に移転登記をする積りであつたが、戸籍上吉田の姓になつてから後に移転登記をした方がよかろうとの親族の意見もあつたのでそのままに経過し、 きとの入夫婚姻を終えて後も登録税等の関係でのびのびとなつているうち戦争になり、控訴人も昭和十七年一月応召して終戦後復員したような事情のため、控訴人に対する所有権移転登記未了のまま打過ぎた。

以上の事実を認定するに足り、これによつてみると本件係争不動産は控訴人が被控訴人の妹 きと結婚式を挙げ事実上の夫婦関係を結ぶと同時に被控訴人から控訴人に対し何等の留保なく贈与せられ控訴人の所有に帰したものと認めるのが相当である」と判示した。

即ち原判決は、上告人は亡吉田彌治郎の長男で同人の家督相続人たる地位にあつたが、明治四十一年頃朝鮮に赴いて、始め官吏生活をしていたが、後に事業を経営し、これに成功して終戦当時には約百万円の資産を有していたものであつて、もともと終生朝鮮に落着き郷里え帰る積りはなかつたものであると前提し、彌治郎の家業(農業)を継いでその後を立てて行く方途としては きに婿養子を迎えてこれに事実上の跡目相続をさせる外はないとし後藤憲太郎の弟憲治郎を彌治郎の所有する財産はすべて同人に譲り事実上同人を彌治郎の相続人とする約束の下に婿養子に迎えて きに娶わせた。上告人は郷里に帰る積りもなく、また生家の財産につき何等未練がなかつたので、むしろ上告人の希望するところであつた。

被上告人についても、上告人は、被上告人が きと夫婦となり事実上上告人の生家の跡を継きその家業を維持して呉れればよいので、戸籍上の手続などはいかようにしてもよいから、是非承諾して欲しい。そうしてくれれば上告人が彌治郎の死亡によつて相続した郷里にある一切の財産(本件係争不動産全部を含む)を被上告人に贈与する旨を告げて只管応諾を求めた結果、被上告人も右の申入を承諾し きと結婚式を挙げたのである、というに存する。

しかし昭和十年一月二十二日上告人が被上告人を養子として きに娶した際に上告人の所有であつた不動産は昭和二十四年五月十六日附準備書面(一一九丁)第一、二項に記載した土地建物がその全部である。これは名義の上では上告人が彌治郎から相続したこととなつているが事実は上告人の働きにより買戻したものである。これは同準備書面末尾に

「第一及第二項の不動産全部は被告先代が財産整理の為め吉田七兵衛に売渡したものであるが、被告に於て朝鮮から送金して買戻したものである」(一二二丁)

と記載してある。

而して被上告人は「準備書面末尾記載の不動産全部を被告先代が吉田七兵衛に売渡したのを被告が買戻した事実は認める」と述べている。(昭和二十四年五月十六日の口頭弁論調書)上告人が朝鮮で働いて郷里の不動産を買戻した経過は昭和二十五年一月十日附準備書面(一九〇丁以下)に記述する通りであつて、

「抑も上告人家は創始二百年に及び、上告人の出生(明治十五年)当時は村内屈指の農家であつたが、亡父彌治郎は明治二十五年頃から生糸の取引を営んで失敗を累ね、遂に家産整理の止むなきに至り、同二十九年所有不動産の大半を売払い、僅かに住宅と其の附近の土地及墓地と其附属地を留保したに過ぎなかつた。

然るに亡父は之を挽回せんとして同三十年新に絹織工場を新築創業したが約二ケ年を経営して是亦大失敗に帰したので、上叙残留不動産の全部を借金の担保として吉田仙之助に対し所有権移転登記を為し、上告人家は破産状態に陥り赤貧洗うが如くになつた。幸い吉田仙之助は上告人の母と実兄妹であり、村内随一の資産家でもあつたので右の不動産全部を上告人家に基儘貸与してあつたが、被控訴人の弟妹は多数であり、祖父母も生存中のこととて多くの家族を擁して生活の困窮は愈々深刻となつた。

当時十六歳の上告人は大いに発奮し家の再興を計り両親に考養を尽し、弟妹の将来を慮り、自家農業の外、日傭人夫となつて家計を助け、十八歳にして村有未墾地を借受けて開拓事業を行い、相当面積の桑園を作つたり農作物の収穫等に依り辛うじて一家の生計を維持して来たのであるが、二十一歳にして徴兵に取られ家計は一段と困つたので、夏季は山形聯隊より四里の山道を自家に帰つて農耕に従事し、更に一日四銭の兵卒手当をも貯い全部父親に送り、除隊の日を一日千秋の思いで待つて居たのであつたが、偶々日露の開戦となつて出征し、同三十九年四月除隊に際し(当時陸軍々曹であつた)再服役を志願した。

之は後二ケ年で恩給年限に達するから、之に依つて家計を助けんとしたのである。

同三十九年十二月陸軍経理官に任官し、四十一年韓国政府の傭聘官吏となり、四十三年八月、日韓合併と共に朝鮮総督府官吏に任用せられ、其後引続いて朝鮮に在任したのであるが、其の間最も懸念したのは吉田仙之助に売渡担保に供した不動産(本件不動産)を亡父彌治郞が買戻することが出来ず、軍人在籍中から屡々仙之助から整理方督促を受けつつあつたので被控訴に於て買戻すこととし、四十一年から四十五年までの間に数回に亙つて皆済し、父彌治郞名義に所有権移転登記を経由し、なほ両親の存生中、軍人恩給全部を郷里で受取らしめ、更に近村に田地二ケ所(立付十俵場)を買求め、安穏な生活を送らしめたのである。

他方、上告人は弟妹の身上についても一切を処理し、弟彌市が海軍を志願したので不自由な仕送りをして横須賀市に分家居住せしめ、妹いわ及やの両名には嫁入仕度全部を相整えてやり、弟(三男)不二夫には九大医学部を卒業させる等、上告人は殆んど一身を犠牲にして家産の復興と弟妹の幸福の為めに専念して来たのである」。

此のように上告人は破産状態に陥つた家運を挽回する為めに働き、父彌治郞の債務の為めに他人の手に渡つた本件不動産其の地を買戻し其の外にも田地を買受けて憲治郞の名義或は長女富美子の名義として実家の繁営のために尽して来たのである。

これは前記のように被上告人も認めている事実であるし、吉田彌次兵衛の第一、二審証言、吉田喜平、柴田儀助、吉田七兵衛の第二審証言の示すところである。即ち

吉田彌次兵衛の原審証言には

「被控訴人の父彌治郞は最初村内でも有数の財産でありました。それが色々の事業に失敗を重ねた結果破産状態となり、全財産を吉田仙之助に売渡して不動産は総べて同人名義になつて終いました。

それを再興しようとした被控訴人は徴兵まで他家に奉公し山形の歩兵聯隊に入隊してからも日曜日毎に帰つては家の手伝をしていくというように少さいときから非常に苦労したということであります。

その後被控訴人は樺太、台湾、朝鮮各地の守備隊で勤務した後朝鮮総督府の役人をやつていたが、その後蓄えた金で吉田仙之助から不動産を買戻して父彌治郞名義にした上弟不二夫を引取つて教育したとのことです。

その弟不二夫は大学を卒業して現在は広島市で開業をやつています。

被控訴人のもう一人の弟彌市(彌治郞の二男)は海軍々人を志願して横須賀市に現在も居住しています。ときども帰郷した被控訴人は自分が今日の如く成功したのも父親が財産を無くした為であり、父親のお蔭で出世したのであるから御恩返しの意味で父には好きな酒を一生飲ませておく、と申しておりました。

右の如く被控訴人は吉田仙之助からの借財を全部返済した上、長女富美子の名義の土地もその頃買受けたのでした」。

吉田喜平の原審証言には

「一、私の母は被控訴人の父と兄弟です。

被控訴人の父彌治郞の代になつた当初は相当の財産がありました。ところが被控訴人の父彌治郞は種々の事業に失敗して不動産全部を吉田仙之助に売渡し破産状態になつたのでした。

その当時被控訴人は兵隊にいきませんでした。その頃から被控訴人は家運を挽回するため非常に苦労をしました。

一、その後被控訴人は徴兵になり朝鮮に渡り除隊後朝鮮総督府の役人となつたのであるが、その間に蓄えた金を郷里に送金して結局吉田仙之助の借金を全部返済した上、本件家屋等の不動産を買戻したのでありました。

そのほか他家に縁付いた姉の衣裳を買つてくれたり、弟二人を教育して弟妹の面倒をみてやりました。

そして被控訴人は朝鮮において相当蓄財したのであつたけれど終戦によつて無一文で内地に引揚げて来たのであります」。

とあるし、柴田儀助も同じ趣旨の証言しており更に吉田七兵衛の原審証言によると、

「一、私の父と被控訴人の母とが従兄弟の関係で私は被控訴人の父彌治郞の存命中から出入りしておりました。

一、被控訴人の父彌治郞は以前相当裕福な生活をしていたところ機業をやつて失敗したという話を聞いているが、私がまだ小学校に通つていた当時その工場が残つていてそこに遊びに行つた記憶があります。

一、私の祖父は仙之助で父は七兵衛です。被控訴人の父彌治郞が機業をやつて失敗した結果負債が出来た為め、同人方の不動産を売切担保にして全部私の祖父仙之助の所有名義にしたことは私の父から話をきき、そのときの書類を見て知つております。

それを被控訴人が取戻そうとして努力したのであるが同人は私の子供時代から吉田家を復興すべくよく働いたのであります。

山形の歩兵聯隊に入隊した被控訴人は日曜毎に遠い道を歩いて家に帰り働いていたことも知つているが、結局朝鮮で成功した結果私の祖父仙之助名儀になつた不動産を取戻したのであります。

その不動産の中には本件係争家屋等の不動産が含まれています。

一、被控訴人が朝鮮に行つたのは日露戦争後守備隊に入つた行つたのであるが、その後現地で除隊して朝鮮総督府に勤めそれから自動車会社を経営したとのことです。

私の方に対する父彌治郞の借金は朝鮮から被控訴人が何回かに亘つて送金して全部返済した上、不動産を父彌治郞名儀に移転したのでした。

一、被控訴人には弟彌市、不二夫、妹いわ、やの、とき(控訴人の妻)の六人の兄弟姉妹があるがそのうち弟不二夫を被控訴人が引取つて勉強させました。

その結果不二男は九州帝大を卒業して医学博士になり、現在は広島市が開業医をやつています。

弟彌市は海軍の志願兵になつたのであるが現在は何をしているか同人の職業は判りません。いわ、やの二人の妹等が嫁いた当時は私も幼い時であり、被控訴人もまだ成功していなかつたがその後、被控訴人は嫁いだ妹いわ、やのに対し道具を買つて与えたという話を聞いています。

被控訴人は吉田家再興に努力して人手に渡つた不動産を取戻したばかりではなく、右のように弟を教育したり妹等に道具を買つてやつたりして面倒をみたのでありました。

私としては被控訴人の悪い点などは考えらません。」

とある。前示昭和二十四年五月十六日の準備書面に吉田七兵衛に売渡したものを買戻したとあるのは吉田仙之助の後は七兵衛という名前であるから七兵衛といつたものに外ならない。

故に上告人が朝鮮に赴いたのは父彌治郞の失敗により破産状態となつた家運を挽回し他人の手に渡つた土地建物を取り戻して立派に先祖代々伝はる家を建て直さんが為めである。その為めに上告人は朝鮮に赴いて一生懸命に働いて送金し、本件不動産等を買戻すことが出来たのであつて上告人にこの志があり、一意其の為に働いたればこそ本件不動産も再び上告人家に買戻すことが出来たのであるし、又父母に孝養を尽し弟妹の世話も尽して一家は困窮を脱したのである。

従つて朝鮮へ赴いて官吏生活をしたり事業を経営したりしたのは自分の志を延ばすため家郷を捨てたのではない。反対に郷里の家を興さんが為である。また其の通り実行して来つたのである。

故にときの婿養子に憲治郞を迎へたのは、上告人が朝鮮に在住しているので故郷に在つて家を継き、父母のかたわらに居て孝養を尽して貰うためである。家のことに関心を持たなかつたからではない。そして き夫婦は故郷で父母の許に居て家を守つてくれる代りに上告人は朝鮮から送金して他人の手に渡つた不動産を買戻し、それを き夫婦に使わせて生活を立ててゆけるようにしたのである。

被上告人を婿養子に迎へたのもときと共に家を守つて貰うためであつて、吉田家の人となつて先祖の祭りを続けて貰いたいからである。故に上告人が第一審で供述するように

「私は祖先からの家を継がせる為妹ときに武夫を婿に貰つたのですが、武夫名義の財産がなくては心細いだろと思つて現在の宅地、家畑墓地及その附近の土地丈は私が相続を譲るまで私名義にして置くがその他は武夫名義にしても良いと吉田善七に頼み皆賛成して呉れたのでした。」

というのが真相であつて、被上告人を上告人の養子として上告家に迎へ妹 きと婚姻させ、将来上告人家を継承させることにしたものに外ならない。行く末は郷里の家を継承させるのであるが法律的に財産を譲るのは上告人がこれを譲るときであつて、それまでは依然として上告人の所有として置くのである。

これは此場合だけでなく一般の慣行であつて吉田ときの原審証言に、

「憲治郞名義に移転登記することについては父彌治郞死亡後にすることになつていました。ただ全財産を与えるという話だけでありました。」

吉田善七の原審証言に

「しかし養父存命中には婿養子名義に財産(不動産)の所有権移転登記をしないというのが一般の慣習であります。」とあるのはこれをいつているものである。

而して上告人は朝鮮に赴いて働き郷里の家を復興したのであり、吉田家の当主であるから郷里の家を絶やさないようにすることを念として被上告人を自己の養子としてときと結婚させて郷里の家を継がせようとしたものであつて、戸籍上のことはどうでもよいとか、郷里の財産は即時上告人に贈与するなぞという筈がないのである。

原審は上告人が朝鮮へ赴いて働いていたのは郷里の家を復興するためであつたこと、而して上告人の働きによつて父彌治郞から吉田仙之助の手に渡つていた本件不動産等を買戻したものであることを看過し、上告人は他郷に出て郷里へ帰る積りは無かつた。戸籍上のことはどうでもよい、又生家の財産につき何等未練はなかつた、更に又昭和五年九月彌治郞の死亡により法律上は上告人が家督相続をしたけれども実質においてはこれに関心を持つていなかつたものと即断し、本件不動産は被上告人がときと結婚式を挙げ、事実上の夫婦関係を結ぶと同時に上告人から被上告人に対し何等の留保なく贈与されたものであるとしたものであつて、社会通念に反すると共に理由不備の裁判であり破棄を免がれない。

第二点

原判決は其の理由において「一方戸籍上の手続は色々と研究の結果ときが分家して、そこに控訴人(被上告人)が入夫婚姻として入籍するのが最も簡明であるとの見解に従い前示のように昭和十三年六月その手続を了て、当時そのことは朝鮮にある被控訴人(上告人)にも通知したが、これにつき被控訴人からはもとより何の苦情もなかつた」と判示した。

しかし江口いわの第一審証言には

「問 ときが分家したのは武夫が入夫婚姻したことは知らないか

答 知りませんでした。

問 解つたのは何時ですか

答 昨年あたりでした。

問 それは彌五右衛門も知らなかつたか

答 知らなかつたのです。

問 親族も媒酌人も知らなかつたのですか

答 知らなかつたそうです。」

とある同人は上告人の妹であつて、郷里に居るのだから分家の手続をすることをときや上告人から聞いている筈であるのに同人がしらないし、上告人は素より其の他の親族媒酌人も知らなかつたというのである。そしてそれが判つたのは昭和二十三年のことだというのである。この事実から見ても分家は秘密に為されたものであること明らかである。

更らに土屋潔の第一審証言には

「問 昭和十三年頃ときが分家したことを知つていますか

答 全然知らなかつたのです。

問 何時知つたのですか

答 民生委員として仲裁に乗り出したときに知つたのです。

問 吉田善七達も知らなかつたのですね

答 そうです。そして粉争を仲裁する為め一昨年十一月大江さん宅に吉田善七その他親類達が集つたときに初めて知つたのです。

問 彌五右衛門も分家の事は知らなかつたのですか

答 彌五右衛門は朝鮮から帰つて来て広島で静養中に知つたのです。」

大江剛倫の第一審証言には

問 それでは原告が分家をしたという事はいつ知つたか

答 私達が仲裁した際原告と被告の双方の親戚の者が集つた時に始めて私は原告武夫が無断で分家をしたという事を被告から聞いて知りました。

尚その時出席した親戚の者とは吉田七兵衛、吉田善七、吉田彌五兵衛でありましたが三名共原告が分家をした当時は知らなかつたといつて居りました。」

吉田七兵衛の第一審証言には

問 昭和十三年五月十六日に被告の妹ときが分家して原告と入夫婚姻をしたという事を知つて居るか

答 その時は知りませんでしたが後になり被告が戸籍謄本をとつたのを見て始めて知りました。」

吉田彌治兵衛の第一審証言に

「問 証人は妹ときが分家した事をきいたか

答 知りませんでした。

問 ときが分家して武夫が入夫婚姻した事も知らないか

答 私がときの分家を知つたのは彌五右衛門が引揚げて来てからです。

問 分家の事は媒酌人の善七も知らなかつたか

答 善七も知らなかつたそうです。

問 彌五右衛門は知つていたか

答 彌五右衛門も知らないでしたと云ひます。

問 それでは分家の事は何時知つたのか

答 彌五右衛門は内地にかへり広島に来て戸籍謄本を見て初めて知り驚いたということです。」

とあり原審でも同趣旨の証言をしている。

影山彌市の原審証言には

「妹ときが分家するについては被控訴人が引揚げるまでそのことを知らなかつたということですから、戸主の同意を得ないで勝手に分家届を出したものと思います。」

吉田ノブの原審証言には

「一、ところがときが吉田家から分家して控訴人が入夫婚姻をしたということを私等が朝鮮から引揚げ後、広島市に来て戸籍謄本を取寄せて見たとき初めて知つたのです。

夫の弟不二夫と私の妹とを結婚させたのであつたが、その間に出来た子供一人が死亡した後間もなく不二夫の妻が死亡して終いました。

それで不二夫は後妻を娶りその間に五人の子供が生れましたのであるが、その子供に私の夫が契約者となつて徴兵保険を加入させていました。私達夫婦が朝鮮から引揚げて広島市に来た際その徴兵保険を受取ることになりました。その為めに私の夫の印鑑証明書が必要となつたのであります。

その印鑑証明書の交付を受けるには寄留届をしなければならず、寄留届をするには戸籍謄本が必要であるということになつて広島市に来てから戸籍謄本を取寄せたのでありました。

一、ときが分家するについては私の方には何の相談もありませんでした。

そのことについて控訴人夫婦以外のものからも通知を受けたことは全然ありません。

当の本人であるときもこのことを知らないでいたのです。

私の夫がときに対してどうして分家したのかと聞いたところ、ときは分家なんかした覚えがないと申していました。

それで初めて知つたときも驚いて姉いわの許にその理由を聞きに行つたということです。

また吉田善七も知らなかつたと申しており、知つていたのは控訴人親子だけであつたようです。」

とあつて、ときは昭和十三年に分家し被上告人と入夫婚姻しているのであるのに、上告人は終戦後内地に引揚げ広島において戸籍謄本を取り寄せて見るまでこの事を全然知らなかつたのであり、上告人が知らないばかりでなく郷里にある上告人の弟妹其の他親族もこれを知らず媒酌人である吉田善七すらも知らなかつたのである。

被上告人が分家することを上告人にも通知したものとすれば近隣に在住するときの姉其の他の近親に相談する筈であり、少くともそれを報告している筈であつて、吉田家の近親が誰も分家や入夫婚姻を知らず、媒酌人である吉田善七すらも知らなかつた事実に徴し、ときの分家及び被上告人との入夫婚姻は吉田家の者には秘して為されたものであり、従つて上告人に対してもこれを秘していたものと認めなければならない。

而して上述の各証言は分家及び入夫婚姻の事実を知らなかつたという直接事実についての証言である。

然るに原審がこれ等の証言に対して判断を与えるところなく、被上告人は昭和十三年五月分家及び入夫婚姻の手続をした当時そのことを朝鮮にある上告人にも通知したと判示したのは前示証拠に対する判断を遺脱したものであり、理由不備の裁判であつて破棄を免かれない。

第三点

原判決は其の理由において

「被控訴人は控訴人がときと夫婦となり事実上被控訴人の生家の跡を継きその家業を維持して呉れればよいので、戸籍上の手続などはいかようにしてもよいから、是非承諾して欲しい。そうしてくれれば被控訴人が彌治郎の死亡によつて相続した郷里にある一切の財産(本件係争不動産全部を含む)を控訴人に贈与する旨を告げて只管応諾を求めた結果、遂に控訴人も右の申入を承諾し昭和十年一月二十二日頃結納を取交し、翌日被控訴人の生家でときとの結婚式を挙げ、その翌日被控訴人は自己の印鑑証明書と実印を控訴人に預け、朝鮮に向つて出発した」旨認定し、続いて

「また彌治郎の所有名義であつた不動産についてはその権利証が前に憲治郎から山辺町の代書人垂石ちんに預けてあつたので、控訴人は昭和十一年十月頃かねて被控訴人から託された実印を使い、被控訴人の代理人として彌治郎の家督相続人である被控訴人のため相続による所有権移転登記又は保有登記を了し、続いて自己の名義に移転登記をする積りであつたか、戸籍上吉田の姓になつてから後に移転登記をした方がよかろうとの親族の意見もあつたのでそのまま経過し、ときとの入夫婚姻届を終えて後も登録税の関係でのびのびとなつているうち、戦争になり、控訴人も昭和十七年一月応召して終戦後復員したような事情のため、控訴人に対する所有権移転登記未了のまま打過ぎた」旨判示した。

しかしときと結婚式を挙げると同時に上告人から被上告人に本件不動産を贈与したものであり、その登記手続をするのに使用することを承諾して上告人が自己の印鑑証明書と実印を被上告人に交付したものであるとすれば、被上告人は直ちに上告人の相続登記又は保存登記を為すと共に自己の名義に所有権移転登記をすることができるのであるから自己の所有名義に登記をしている筈である。

然るに被上告人は昭和十一年十月に上告人のため彌治郎から相続による所有権移転登記及び保存登記だけを為して其の儘にしてある。加之、其後昭和十三年五月にはときの分家及び入夫婚姻手続を為しているに拘わらず、右不動産は上告人の相続登記をした儘になつているのである。

これは被上告人は上告人から相続登記をするように頼まれたから相続登記だけをしたのであつて、贈与を受けた事実が無いからであるといわねばならない。

原判決は「続いて自己の名義に移転登記をする積りであつたが、戸籍上吉田の姓になつてから後に移転登記をした方がよかろうとの親族の意見もあつたのでそのままに経過し」たと判示しているが、その後昭和十三年五月十六日にときを分家し被上告人が入夫婚姻しているのであるから被上告人がこの手続を為した当時所有権移転登記をしようとすれば直ちに出来るのである。然るに右の如く分家及び入夫婚姻をして後も所有権移転登記を為さず、其の儘にしておいたのは上告人から相続登記をして置くようにいわれたけれども、贈与を受けた事実はなかつたからに外ならない。

原判決が前示の如き理由の下に本件不動産は被上告人がときと結婚式を挙げ、事実上の夫婦関係を結ぶと同時に上告人から被上告人に贈与されたものであると断定したのは社会通念に反し破棄を免かれない。

第四点

原判決は其の理由において「ときとの入夫婚姻を終えた後も登録税等の関係でのびのびとなつているうち戦争となつた」旨判示するが、原審の挙げた証拠を見るに、登録税の関係で所有権移転登記がのびのびになつたことを示す証拠はない。却つて被上告人の原審供述を見るに

「その後どうして私名義に不動産の所有権移転登記手続をしなかつたかというと、その事情は次の通りであります。

登記権利証が代書人の許にいつているから都合のよいとき行つて移転登記をしてくれるようにとの被控訴人の言であつたから、最初私と吉田善七との二人が山辺町の垂石代書人の許に行つたところ、同代書人は被控訴人名義に相続による移転登記をした後に私の名義に移転登記をするのであるが、私の姓が日詰姓から吉田姓に変つてから私名義にする登記をした方がよく、入籍手続が済んだなら何時でも登記してやるというので、そのときはその儘にして帰りました。

そうしているうち支那事変が起り私も何時応召されるか判らなかつたため移転登記の方は何時でもよいと考えてその儘にしておいたところ結局私の所有名義に移転登記することは出来ないままになつて終つたのです」

とあつて登録税の関係でのびのびとなつたのではない。垂石代書人からは入籍手続がすんだら何時でも登記してやるといわれたがその儘に放つていたというのである。ほんとに自分の名義に所有権移転登記をしようとしたのであつたとすれば、昭和十三年五月十六日に分家及び入夫婚姻手続を済ましているのであるから、垂石代書人の処へ行つて所有権移転登記をして貰つているのが普通であるのにそれをしていない。

又被上告人の実兄日詰庄吉の原審証言を見ても

「控訴人が被控訴人の妹ときと結婚すると直ちに控訴人名義に移転登記をしなかつたのはどうゆうわけか知りません。

私としては本件問題が起きるまでは既に移転登記をやつていたものとばかり思つていました。

そのことを控訴人に聞いたところ被控訴人を信用して安心していたことが一つの大きい原因であつたということであります。

そのほか山辺町の垂石司法書士より入籍してから移転登記をした方がよいではないかということをいわれてのびのびになつていたところえ戦争が始つた為め、遂に移転登記をする機会がなかつたということでした。また不動産の登記権利証が見えないということもあつたそうです。

私としては既に控訴人名義に移転登記をしたものと思つていたから後でこのことを聞いて始めて知りました。」

とある。即ち登録税の関係でのびのびとなつた事実は無いこと明らかである。

原判決は証拠によらず入夫婚姻の後も登録税の関係で所有権移転登記をしなかつたものであると認定したものであり、採証の法則に違背し破棄を免かれない。

第五点

原判決は其の理由において「また上来認定の事実関係からみると控訴人はときと事実上の婚姻をすると同時に被控訴人から係争不動産の引渡を受け、爾来これを管理し使用収益してきたものと認めるに十分であり、不動産の贈与契約においても、その引渡があれば民法第五五〇条但書にいわゆる履行を終つたものと解すべきであるから、書面によらない贈与であるの故を以てこれを取消すとの被控訴人の主張も採用に値しない」と判示した。

しかし民法第五五〇条は書面に依らざる贈与は各当事者之を取消すことを得るものとすると共に、履行の終つた部分に付いては取消すことが出来ないものとしている。

書面に依らない贈与を取消すことが出来るものとしたのは、無償で相手方に財産を与える行為であるから贈与者が軽卒に契約を為すことをいましめ、かつ証拠が不明確となり紛争の生ずるのを避けようとするにある。

しかし既に履行が終つているのであれば、その贈与の意思は事実上の行為によつて確定的に表現され、完了してから書面によらないものであつても之と等しい確実性が外部的変動によつて表現されているのだから取消し得ないものとしたのである。

故に履行を終つたものであるとするが為めには、贈与の意思が書面によつて表現された場合と対比し得るような表現力を持つ行為がなければならない。

動産については引渡が所有権取得の対抗要件であるから、動産の贈与であれば目的物を引渡せばこれによつてその動産の所有権が完全に受贈者に移転し、ここに履行は終つたものであつて爾後取消は許されないが、

不動産は登記が所有権取得の第三者対抗要件となつているので、不動産の贈与は所有権移転登記を経なければまだ履行を終つたものというを得ない。蓋し単に引渡を為したのみでは後日贈与者が第三者に対して所有権を移転し、その登記を経れば受贈者はその不動産の所有権を取得出来ないことになるからである。

本件に於ては所有権移転登記を経由していないのであるところ、原審がその引渡をしたと判示する事実は、上告人が被上告人に対して贈与の意思を表示したことを指すに過ぎず、その前後を通じた目的物占有の外形的事実には何の変化もない。

本件不動産は上告人が郷里の実家を復興すべく朝鮮に赴いて働き、これによつて買戻したものであり、郷里に在つて実家を立てて行く者に無償で使用収益をしていたものであるから、贈与してもしなくとも前後を通じてとき夫婦に無償で使用させることに変りはない。従つてそれが贈与され履行が終つたとするには、贈与してもしなくとも存在する外形より受贈者であるとされる被上告人の所有権取得に向つて外形的事実に変動が加へられた場合でなければならない。

これは一面贈与は書面によらなければ取消し得るものとして書面の作成という外界の変動を要求しているのに対応し、これを取消し得ない場合として履行の終了が要求されていることからする当然の帰結といわねばならない。

然らば本件の場合は贈与の意思が表示されたとしても、その前後において外形的事実には変動がないのであるから未だ履行を終つたものということを得ない。従つて贈与の取消は有効なのである。

原判決は民法第五五〇条但書を不当に適用したものであつて破棄を免かれない。

以上

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